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「きもの美」 白州正子

 白州正子「きもの美」を読みました。

きもの美 (知恵の森文庫)
きもの美 (知恵の森文庫)

(2008/01/10)
白洲 正子

 著者は1910年生まれ。1904年生まれの幸田文とほぼ同世代。文庫本化されたのは最近ですが、書かれたのは1962年。つまり50年前に書かれた本です。

 あとがきに

目的は全般的なきものの知識にはなく美しいきものを語ることにありました。(p.251)


とありますが、着物の歴史や、織・染に関する知識も、ページの約半分をしめ、一方で、エッセイ的な部分もあり、といったバラエティな内容。華族出身であることから、文豪や著名人の名前が数多く挙がるので、有名人の裏話的な興味で読むこともできるでしょう。人により、様々な読み方のできる本だと思います。

 あとがきによれば、たった10日あまりで書き上げた本だそうで、少々気まぐれというか、一貫性に欠けはしますが、その分、推敲を重ねていれば、もしかしたら削除されてしまったかもしれない、率直な意見や素直な表現があり、大変興味深く読みました。



 たとえば、この方はお店をやっておられたのですが、そのお店で売るものとして、

安くて、丈夫で、まじめなものに力を入れています。(p.78)

とある。この「まじめなもの」という言い方が気に入りました。「まじめな」という表現は他の箇所でも何度か出てきます。こういう率直で感覚的な表現から、著者の人となりが透けて見える。この本の魅力の一つだと思います。


現代の茶道も華道も、多くは真髄を喪失し、「言葉」の世界に脱した感があります。口にわび・さびを唱えながら、さながら社交界と化している。なるほどお茶はつき合いには違いないが、単なる「おつき合い」ではありません。またお行儀を教える場でもない。和敬静寂といいます。互いに和しつつ敬うことによって成り立つ静寂の世界―――少しまずい表現ですが、そういうひたむきな境地であるはずです。が、現実に行われることは何か。互いに競争しつつ巻き起こす騒音の世界、とでも申しましょうか。きものはきもので競い合い、流派は流派で宣伝し合う、肝心の茶も花も忘れられた形です。(p.214)


 同じことを感じる人は多いのではないでしょうか。こういうことを庶民が言っても鼻であしらわれて終わりですが、華族出身のこの方が言うと、大変迫力があってよろしい(笑)。


 まあちょっと「ハイ?」って思うところもありますが。

あらゆる手れん手くだを用いる商売人より、物の値段の方がたしかです。これは信じていい。高いものには、必ず、高いだけの手間がかかっている。(p.54)


 これには同意しかねる。何か根拠があるならば、ぜひその論を詳しく聞いてみたいものですが、この二文は前後の脈絡なく、ひょろっと出てきて、それっきり触れられていないので、ちょっとした思い付きで書いてみただけかも、という気もしないでもない。



 でもそういうのはごく一部のことで、全体として、著者のものの見方は一貫しています。

(前略)あまりに技巧に堕したものはかえってつまりません。文化財として保存するにはふさわしいが、着るのにたのしくはない。「名工は鈍刀を使う」といいます。(p.93)


一般にいって、「つきすぎる」ことをきものは嫌います。(中略)何事も、つかず・はなれずの風情に保つのがよろしい(後略)(p.197)


何でも、その環境に、ぴったりしたものが美しい。そうかといって、合いすぎるのも困り者です。(p.201)


(前略)きものには、調和の面白さがある。むろん洋服にもあることですが、それとは少し違って、バラバラのものを使って統一するという別なたのしみが見出せます。(中略)不協和音を、わざと持ってくることで、全体がひきしまることもある。(p.192)


色と柄と質、それぞれ違う種類のものが、一つの調和をうむ所に、きものの最大のたのしみはあるといえます。(p.196)


 これ、和食器の考え方と同じですね。和食器も、なるべく色柄や素材の違ったものを混ぜてつかうのがよしとされ、洋食器のディナーセットのような一揃いは野暮の骨頂。自然体をモットーとする日本では、きものにおいても、作為を感じさせる「できすぎ」を嫌い、どこか「はずす」ことが肝要なのかもしれません。



 さりとて日本人は、全くの無作為・自然体を好むわけでもない。無防備な野暮と、できすぎの野暮の間にある、ちょうどいい塩梅は、やってみないことには見つけられない。

思えば無駄なお金と時間を使ったものですが、無駄を恐れたら、きものだけでなく、何も覚えることはできますまい。失敗は成功のモトといいますが、きものだってさんざん失敗して覚えるものなのです。(p.43)


失敗しないよう、間違いのないよう、安全第一を目ざすのも怪我の元です。たのしみがないから、直ぐあきる。物を覚えるのに、痛いおもいや恥ずかしい目をおそれたのでは成功しない。きものを見る眼も同じことです。(p.191)


 「安全第一を目ざすのも怪我の元」、これも、なんとなく分かる。無難さに一度引きこもってしまうと、なかなかそこから出られず、引きこもっているうちに、飽きてしまう。



 また、カッコええなあ、と思ったのが以下の箇所:

きものは自分の為に着るといっても、本来、人に見せる為にあるものです。おしゃれとは、虚栄心以外の何物でもない。(p.53)

おしゃれとは、虚栄心以外の何物でもない」、実に清清しく言い切ってくれるじゃないですか。

 とはいえ、

きものだけを見せびらかす体のきものは、その人柄まで見えすけてしまいます。(p.52)


要は背のびをしないことで、度々いいますように、自分に似合ったものを見出すことです。(p.53)


 (前略)文学に現われるきものの描写は、枚挙にいとまもありません。(中略)趣味がいいというのは、その人の教養をしめすことであり、その姿を見るだけで、おおかたの人物がわかると思われたのかもしれません。形というものは大事です。思うに、目的はきものの描写にはなく、その人格を現わすものとして、重く取扱われたに違いありません。(p.176)


 要は、着物で自分を虚飾し、嵩張らせたところで、人となりは自然に伺い知れる。そこがファッションの怖いところでもあり、面白いところでもある、ということでしょうか。



 この本を読んで驚いたのは、50年も前に書かれた本なのに、内容が全く古びていない、いうことです。

 それは一つには、きものを取り巻く状況が、50年前と呆れるほど変わっていない、ということ。・・・というよりむしろ、50年前でもすでに、今と大して変わらない状況だった、ということに驚きました。50年前、すでに着物は日常着ではなく、特別な機会にのみ着るものだった。そして、着物によって富を誇示したり、贅沢さを競うきらいがあった。それが余計、着物離れを進ませていった。この本はその傾向に警鐘を鳴らしているのです。


 また一方で、著者の先見性に負うところもある。

 日本のきもののはじまりが、外来のものだったというのは興味あることです。どんな国でも、隣国の影響を受けない所なんてありませんけれども、何から何まで外国が手本だったという事実は、現在もまったく同じ傾向で、人間の好みが変わらぬことに驚きます。

 (中略)

 が、はじめは外国のものにあこがれ、全面的に模倣している間に、独特のものを生み出すのも日本人の特質です。絹がそうでした。絣がそうでした。陶器もそうなら、お茶もそうです。あらゆるものをいつの間にか自分のものにこなしてしまう。しかも、他に真似られぬ精巧な技術と、深く静かな味をもつ、独特な芸術に生まれ変わる。日本人は真似ばかりすると、日本人自身そういいますが、私は決してそんな風には思いません。模倣のない所に、創作はない。溺れるほど打ちこんだら、ぬけ出る道は必ずあるのです。(p.173)


 こういう発想は、今でこそ、割と普通に受け入れられますが、1980年代の前半までは、インテリほど日本人の摸倣主義を自嘲していた。そういう風潮の中、当時はかなり独創的であったのでは、と思います。とはいえ、

考えてみると、自分の個性、あるいは持って生まれたものを、あっさり捨ててかえりみないのも日本人の特質といえるかもしれません。だから進歩もするのでしょうが、それもものによりけりで、自分あっての上の変化であり、摸倣であってほしいと思います。(p.94)

と危惧してもおられますが、この本が書かれてからの50年間の歩みを見ると、案外日本人は頑固に自分らしさを持った民族なのではないかなという気が、わたしはします。馬鹿なところも、イヤなところも、賢いところも良いところも、日本人は呆れるほど50年前と変わっていないと思えるからです。



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Author:うさぎ
50歳にして着物を着始めた、最初の一年間の日記です。 

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