目を肥やしたくない

 わたし、羽織って大好き。母や祖母の羽織姿に子どもの頃から憧れていました。

 でも大人になって、着物は親にいくつか作ってもらったけど、羽織までは作ってもらえませんでした。ねだってもみたけれど、「いまどき羽織なんて」と言われ、あえなく却下されました。30年前の話です。

 だから最近、中古の羽織を手に入れたときは嬉しかったです。今も羽織は流行らないらしく、ことに丈の短いものとなると売れないらしく、お安い値段で気に入ったものを手に入れることができました。もう大喜び。嬉しくてよく着ました。



 ところが最近、周りが見えてきた。お洒落な方は、同じ羽織でも、丈の長い長羽織をお召しだなあ、って。それでわたしも長羽織が欲しくなって、最近アンティークのを買いました。手に入れたときはほんとに嬉しくて、スキップしたくなりました。

 でもそしたら急に、いままでの丈の短い羽織が着られないような気がしてきた。なんだか流行遅れな気がして・・・。

 短い丈の羽織を着て幸せそうに笑っている写真の中のわたしを、さげすむような、憐れむような、イジワルな目で見ている今の自分がいる。「無邪気でいいわね」みたいな。

 そして、この線を延長していくと、今のわたしも、将来の自分にさげすまれることになるのです。将来もっといいものを手に入れたら、古風な長羽織を羽織って鏡の中で満面の笑を浮かべている今のわたしもきっと、「無邪気」とみなされるに違いない。

 たとえば、新品の羽織を誂えたりしたら。裄出しのあとが残っていたりしない、今風の立派な羽織を手にいれでもしたら、今大喜びの長羽織も着たくなくなるだろうと想像するのです。




 これを「ステップアップ」とか「洗練」という言葉で呼べる人はいい。でもわたしには、不幸に思えてなりません。流行なんて、乗っていなかろうが、遅れていようが、誰にも迷惑をかけることではないのに、自分で自分を縛り、選択肢を狭くして、幸せを感じる瞬間を、わざわざ自ら捨てていくのだから。

 みんなが着ているようなものが欲しくて、いつも欲求不満。手に入れたらまた次のが欲しくなる。いつも世間に媚びながら後をついていくばかり。こんな連鎖で幸せになれるわけがない。



 ほんの数ヶ月前まで、羽織と道行の違いですら、よくわかっていなかったわたし。まして、丈の長さなんてどうでもよかった。それが、見る見る間に「目が肥え」て、いまや「違いのわかる女」になってしまいました。

 「目を肥やす」というのは通常、いいことのように言われますが、ある意味、自分を縛る縄をわざわざ求めるようなもの。余計なことを知りすぎると、幸せになれない。禁断のリンゴを食べて知恵のついたアダムとイブのように。

 「いいもの」と「そうでないもの」の違いを知ってしまったら最後、「いいもの」を追い求めることになる。違いが分かるばっかりに、そこから外れるものでは満足できなくなる。

 「いいもの」を着て、でも「もっといいもの」が欲しい人と、自分の着ているのが「いいもの」ではないと気づかずに、満足している人。はたしてどちらが幸せでしょう。



 きものについてもっと知りたい。それは確か。もっといろいろ知って、素敵になりたいと思う。



 でももし、「知ること」が、幸せを捨てることに繋がるのだとしたら・・・。



 素敵になることを諦めてでも、わたしは幸せでいることのほうを選びます。








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Author:うさぎ
50歳にして着物を着始めた、最初の一年間の日記です。 

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